昭和40年6月14日 朝の御理解
(途中から)当時の宿老と言われた佐藤先生にそう仰っておられますね。「この方は人が助かりさえすれば良いのだ」という事。と言う事はね、人が助かる事さえ出来ればという事は、教祖の神様ご自身が助かりさえすれば良いという意味。
自己主義じゃないですけれども、ご自身がどういうような中にでも助かりを感じておられるという事。助かっておらなければ、どうして助ける事が出来きますか?自分が(溺れて?)おってから、(おぼれている人を助ける事ができ?)ないようなもの。ね。
先ほどの、(?)あるご信者さんのんー、いわゆる人間関係、家庭、娘さんがあー、出ていったりして、大変な(?)、あの、あちらこちらあの、2つあの、その向こう方とこちら方の仲人さんがおられましたんですが、もう、二人の子供もおって、長年、夫婦生活も続けられてから、もう、今度はいよいよ、(?)あげてしまって、もう、いよいよわかれるという事になった。
もう、ここ五日間あまり、もうそれこそ、( ? )。結局んなら一つ、椛目の先生のお話を頂いてから、話を決めたという事になった。
夕方から見えられました。ね、私は言うんですよ。ね、「二人の子供の為にね、例えば、元のさやに戻るとか、その大変な(?)出てですね、例えば右にするか、左にするか、2つのどっちかを取らせてもらおうと。ところがその、私は2つのどっちもいけん」と私は言う。そげな事じゃいけんち、そのなかにです、ね、もう分からないとどうすれば幸せになるかと、分からずにどうしたならば、幸せになれるかという一つのところから、答えを出していかなければいけないと。
したらその中に大変変わった、まあ有名人なんです、そこの近所の。ここに来るとこげなおかげが(?)。そしてね、子供達が二人の子供達が(?)する。二人の子供達がね、為に例えば、二人がまた、元の(さや?)に、戻ると、そげな馬鹿な話があるもんか、そげな事じゃないて。ね。主人も助かれば、家内も助かる。まず、家内自身が主人自身が子供達は問題じゃなかと。問題は銘々が助かる事の為に私が言う通りにしなければならないと言う事。
夫婦が助かって子供が助からんはずがなかろうもんと。もう本当に、子供が犠牲になって何十年間という、生涯をです、苦しい生活をした、そげな馬鹿な話があるもんかと。
まず、お母さんがお父さんが助からずして、ね、そしてその、(?)「先生もうそれです、もうこれで決まった」というておられる。私はそれを話しておる内にですね、その、その頑固にいろいろ条件をいっておった、相手のお父さんになる人がです、だんだんだんだんですね、いわゆるその心が「はあ、そうだ、そうだ」といって聞きよるのですから、顔色が変って来るです。
(?)合点して聞くようになったです。ね。「だからまあ、皆さんて、先生が言う通りどうね」て「そう、おかげを頂きますと、そんなら、その、お母さんを呼んでくるというてから、お母さんを呼びにいって、また、これはもうこういうような事で、ね、話が決まったから、あんたもそういう気持ちで帰る事が出来るか」て「おかげを頂きます」というて、その、涙を流してから、そのみんなの前でその、いうわけなんですよ。
ね。なら、今日も、二人の子供達が喜ぶ喜ぶ、ね、お父さんがちょっと下に降りたらもう、どっかさあーと(2階に上がるですもん?)あげんあったですけんね。ん。子供はそげんごとなっとると。
夫婦のいわば、折り合いが悪かった為に。いわゆる夫婦の助かりが出来ていなかった為に、子供がいつも、学校から帰って来るでん、お父さんはお母さんはと一番初めに聞くそうです。
ね。お父さんお母さんが助かったら子供達は安心して、勉強もできるし、ね、有り難い生活も出きるという、その状況を色々申し上げる事が沢山ある、申し上げるというか、あるんですけれども、それが、普通のいわば、もののかたずけ方ちゃあんなもんじゃろうと思うのですけれども。ね。
信心で、例えば私思うのです。お道の信心とはどういう問題でもです、解決のしかも皆が助かっていけれる、道のいわばヒントを与えて下さる。その、かぎを金光様は握ってござる。それを与えて下さる神様だな信心だなと思うんです。ね、誰が助かる、彼が助かるじゃありません。これは、私自身大坪総一郎自身が助かる以外にないです。
ね、私がいわば、(?)いわば平気である私になる以外にないです。ね。( ? )。
ここの親先生がいいよるけん間違いなかのちういてその、( ? )。
もう本当に私、(?)御婦人の方ですけれども、( ? )思うておったっちいうて。ね、そういう問題がです、解決のおかげになっていくです。
それがなんともかんとも有り難い雰囲気のなかにです、本気でんならそういうような、あり方にならせて頂くぞという、事になってくる。
あれはいうならば、私が、( ? )と私は思うのですよ。ね。人が助かる事さえ出来ればというのはそういうような事だと思う。ね、だから、人が助かりさえできればという事は、まず私が助かるという事なんだと。人じゃないと。私自身が助かっておらずしてから、人を助ける事は出来はしません。ね。私共それが楽しみだから何もいらんと私は言う。
もう自分が助かっていく楽しみばかりしかないのだもん。私が助かってさえすりゃ人が助かる事は分かっておるのだもん。ね、(?)人が助からんとか、ね、そういったような組織の中に入っていかなければ人が助からんといったような事はない。
ね、そういう看板であり、組織であると私は思うですね。
おかげを頂かねばなりません。